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東京高等裁判所 昭和29年(ネ)1917号 判決

昭和二九年(ネ)一、九一七号事件控訴人(原告) 篠塚敏夫 外一名

昭和二九年(ネ)二、〇〇五号事件控訴人(被告) 東京都教育委員会

昭和二九年(ネ)一、九一七号事件被控訴人(被告) 東京都教育委員会

昭和二九年(ネ)二、〇〇五号事件被控訴人(原告) 堀切路夫

原審 東京地方昭和二六年(行)第四三号(例集五巻八号194参照)

主文

本件控訴はいずれもこれを棄却する。

控訴費用はそれぞれ控訴人らの負担とする。

事実

昭和二十九年(ネ)第一、九一七号事件について、第一審原告篠塚敏夫、同中野清秀訴訟代理人は、原判決をとりけす、みぎ篠塚敏夫、中野清秀にたいし第一審被告が昭和二十五年二月十五日なした休職処分はこれをとりけす、訴訟費用は第一、二審とも第一審被告の負担とする旨の判決をもとめ、第一審被告訴訟代理人は控訴棄却の判決をもとめた。

昭和二十九年(ネ)第二、〇〇五号事件について、第一審被告訴訟代理人は、原判決をとりけす、第一審原告堀切路夫の請求を棄却する、訴訟費用は第一、二審ともみぎ第一審原告の負担とする旨の判決をもとめ、みぎ第一審原告は控訴棄却の判決をもとめた。

当事者双方の事実上、法律上の主張、証拠の提出、援用、認否はつぎのとおりつけ加えるほか原判決の事実らんにしるすところと同一であるからこれを引用する。

(主張)

別紙のとおり各当事者は当審においてあらたに陳述した。

(証拠)〈省略〉

理由

当裁判所は第一審原告篠塚、同中野の請求をそれぞれ棄却すべきもの、同堀切の請求を認容すべきものと判断する。その理由はつぎのとおりつけ加えるほか原判決の理由にしるすところと同一であるからこれを引用する。第一審原告篠塚について。

一、同原告は「処分説明書に処分事由として明記され、かつ審査の裁決書に処分事由として認められた以外の事由は、本件行政処分取消訴訟において主張できない」という原審での主張を当審でもくりかえして主張し、原判決理由を攻撃する。しかしながら本件について裁判所が審理する対象は、第一審原告(以下たんに原告という)篠塚らを第一審被告(以下たんに被告という)が休職処分に付したことが違法かどうかという点であつて、被告のなした処分説明書や裁決書の説示内容の当、不当を再審理するものではない。被告のなした休職処分は、原告らの具体的な行為を本件「刷新基準要綱」にてらし、これにあてはまるものとしてなしたことはあきらかであるけれども、けつきよくそれらの行為を総合して原告らが学校教員としての適格性を欠くものと認めたことによるのである。すなわちそれら個々の具体的行動そのものが処分事由というよりもむしろ、その具体的行動から客観的に認められる原告らの学校教員としての適格性が問題とされるのである。かかる行政訴訟においては処分をした行政庁は、処分説明書あるいは審査裁決書にかかげられている被処分者の行動ばかりでなく処分当時までになされた被処分者の他の行動をも処分の正当なことの事由として主張することができるものと解するのが相当である。要するに、裁判所が行政処分の適法不適法を判断するにあたつては、処分当時に客観的に存する事情の全部をしんしやくすべきものであつて、当事者が処分当時処分の理由として表示しなかつたものでも、ないしは当事者が、その事実の存することを知らなかつたものでも、裁判所はこれをしんしやくすることができるのである。この原則によれば、行政処分は客観的に正当であるかぎり裁判所によつて支持され、行政処分が違法であるとして裁判によつてとりけされた場合被処分者は明示された処分事由以外の事実にもとずき、かさねて不利益処分をされるおそれがなく、被処分者にとつても有利である。

この点に関する原告篠塚の主張はこれに反する見解にたつて原判決を攻撃するもので採用できぬところである。

二、「駐在所に対する共産党細胞掲示板に関する抗議」という処分事由については、同原告所属学校の「昼休み」が勤務時間であることは原告の認めるところであり、したがつて原告は勤務中に外出し、しかも誤解にもとずいて当該駐在所巡査に抗議したものであつて、かかる行為は学校教員としての信用品位に欠けるところあることは否み得ないけれどもいまだ「刷新基準要綱」(二)の(3)に当るとなすまでにはいたらない。

三、「学校を拠点とし又は教員の身分を利用した政治的活動で教育上支障ある行為」についての原判決の認定にたいし、それが同原告の政治的傾向を問題としたもので憲法第十四条に違反すると非難するけれども具体的な個々の行為全部をあわせて「基準」に定めある条項にあたると認めることはなんらさまたげなくこれを目して憲法に違反するとなすことのできないことはいうまでもない。

四、当審証人斉藤恒雄の証言、および当審における原告篠塚敏夫の本人尋問の結果のうちそれぞれ当裁判所の認定に反する部分は信用できない。当審証人榎本一郎、高井修、渡辺甲子男、石堂哲男の各証言によると、原判決の篠塚敏夫に関する部分の認定ならびに判断の正当なことをいつそう確実に認めることができる。

第一審原告中野清秀について。

一、同原告はその「人民民主主義教育方針の主張」の行為について、原判決理由にそごがあるというけれども、原判決は、こ場合における原告中野の政治的意見発表の行為をもつて、その後になされた同原告の一党一派に偏した政治活動がその発意に出たことを証する有力な資料となすことができるとし、その政治活動行為とあわせて「基準」(三)の(3)に当ることを認定したものであること明白であり、そこになんらむじゆん、どうちやくはない。同原告のみぎ主張は採用できない。

二、同原告の転任問題について原告が共産党の力をかりた証拠はないと主張するけれども原判決の引用する証拠によると十分その事実を認めることができ、この点に関する同原告の行動を「基準」(三)の(3)にあたると断ずるのが相当である。

三、同原告がはじめ荒川六中の教員として採用せられた事情がその主張のように当時の同校校長福田道善の自ら選んだところで、その後同校長の原告にたいする指導に不十分のところがあつたとしても、原告の校長にたいする行動はもとより原告の自発的行為でその責任に帰すべきものであることは明白で被告がこれを「基準」(三)の(1)に該当するものとしたのは相当といわなければならない。

第一審原告堀切路夫について。

一、担任事務の放棄について。被告は、「原告堀切が担任事務を放棄してかえりみなかつたのである。決して校長山路喜太郎が自ら進んで同原告の担任事務を解き他の教員をこれに代らせたのではない」と強調する。しかし当審証人山路喜太郎の証言によると、昭和二十一年ころは、教員組合もまだ組織せられたばかりで、教員間にその方面に関する知識少く、山路校長としては教育と組合活動とが両立しうるものと考えこの方面に詳しい同原告に組合に関する事務をやらせたところ、その結果は担任事務がおろそかになるのでやむを得ず同原告の担任事務を解いたことを認めることができ、当時の教員組合活動の一般情勢からみてとくに同原告のこの点に関する行動を目して「基準」(三)の(1)(2)にあたる非行とはなしがたい。

二、都教組大会への赤旗携行について。当審証人小林徹の証言によつて真正に成立したものと認められる甲へ第十二号証、当審証人石毛一の証言によつて真正に成立したものと認められる乙へ第二十六号証の一、二にみぎ証人小林、石毛の各証言、当審証人山路喜太郎の証言をあわせると、原告堀切が赤旗を携行したという大会は昭和二十一年十二月十七日の「吉田内閣打倒国民大会」であることが確認できる。したがつて原判決理由のこの事項の部分に「皇居前広場において催される東京都教職員組合大会に出場するにつき」云々とある「東京都教員組合大会」は「国民大会」と訂正する。被告は原告堀切が組合の大会でなく全国民の大会に共産党のシンボルである赤旗を携行したものとして非難するのであるが、赤旗がただちに共産党、あるいは社会党のシンボルといえず、昭和二十一、二年ころもひろく労働組合の組合旗として用いられていたこと、また原告堀切の携行した赤旗は、当時浅間小学校教員らの属する組合の旗じるしとして使用して来たものであること、しかして、昭和二十一年十二月はじめ、浅間小学校教員の組合職場大会でみぎ「国民大会に同校教員らがみぎ組合使用の赤旗をたずさえ参加することが論ぜられた末大多数で承認せられたこと(みぎ職場会には校長山路喜太郎も組合員として参加している)前記乙へ第二十六号証、当審証人小川篤之助の証言によつて真正に成立したと認められる甲へ第十三号証、同証言、当審証人石毛一の証言、当審ならびに原審証人山路喜太郎の証言をあわせると認められるから、同原告がみぎ大会に本件赤旗を携行したとしてもそれは「基準」(三)の(1)あるいは(2)に当るとなしがたいこと原判決理由に説示するとおりである。

三、赤旗つるし下げについて。当審証人熊田徹事の証言によつてもこの点に関する原判決の認定判断をくつがえすことはできない。当審証人小川篤之助の証言によればいつそう、みぎ判断の正しいことをうかがい知ることができる。

四、職場会開催による授業の放棄について。被告が主張するような原告堀切の授業放棄の事実は当審におけるあらたな証拠をあわせてもこれを確認することはできない。

五、校長無視の風潮惹起について。当審証人山路喜太郎、石毛一、小林徹の各証言等によると、終戦直後から昭和二十二年はじめころまでの間、小中学校の教職員をもつてなる教員組合が成立発展し、当時の一般社会情勢を背景として、その組合活動が、かつぱつに、行われた結果、学校長の権限も戦前にくらべ実質的に、はなはだしく制限せられ、教員間に校長無視の風潮が起つたが、原告堀切の属していた浅間小学校もこの例にもれなかつたところ、校長山路喜太郎はこれに抗し、城東区の他の小学校長らとともに組合を脱退したこと、同原告は当時浅間小学校内における教員組合(東京都教育労働組合城東支部浅間分会)の活動を指導していたことをそれぞれ認めることができる。校長の正当な権限を無視するような傾向を生じたことについては、みぎ組合の活動に行きすぎがあり、したがつて当時同原告の組合を指導する行動には「基準」(三)の(1)(2)に当ると認めざるを得ないものもあつたと思われる。しかし前記山路喜太郎ら校長の組合脱退後堀切ら組合員が反省し将来校長の職責を無視することのないように行動することを申入れ、双方妥協して、校長らもふたたび組合に復帰したこと当審証人山路喜太郎の証言によつてあきらかであり、また脱退した山路校長の席の移動や「卑怯者よ去れ」の貼紙をしたことについてはこれが原告堀切のなした行為であると認めるにたる確実な証拠は見当らない。

六、平野教諭の都主催講習会出席妨害について。原告堀切の平野教諭にたいするこの点に関する行為は、同原告の勧告的意見にたいし、平野清司が反対し両者数時間にわたつて激論をたたかわした程度で、同原告がみぎ平野教論の自由を拘束し浅間小学校の民主的運営をさまたげるほどのものであつたとまでは考えられないこと、当審証人平野清司の証言によつてもあきらかである。

七、新校長受入れ反対運動について。この点については当審証人野々田健三の証言によると、原告堀切は野々田健三が浅間小学校長として赴任するについて直接同人にたいし反対あるいは妨害するような行為をしたものでないことはあきらかである。同原告が組合の代表として区当局にたいし「組合の総意によつて公選した候補者以外の者から任命せられた校長を拒否する云々」と申入れたとしても、みぎは、「組合の決議によつてすいせんした者を校長として区当局が任命して欲しい」という要望を強調したものと解するのが相当であること本件弁論の全趣旨から認められ、この点に関する原告の行動を「基準」の条項に当たるとするは無理である。

八、校内居住における学校管理上の障害について。当審証人山路喜太郎、野々田健三の証言によると、原判決の認定の相当であることがいつそう確認しうる。

九、共産党公認候補の選挙運動について。当審の証人関研二、同小林徹の証言、当審における第一審原告堀切路夫の本人尋問の結果ならびに本件弁論の全趣旨によると昭和二十二年四月ころ関研二は東京都教育労働組合(都教労と略称し、東京都教職員組合すなわち都教組の前身)の中央執行委員長で原告堀切は同組合の中央執行委員であつたことを認めることができる。したがつて原判決理由中この部分(判決書六八枚目ウラ第七、八行目)に「関は都教組の副委員長であり原告は中央委員であつた云々」とある部分をみぎ認定の趣旨に訂正する。その他原告堀切の本項の行為が当時においては合法な組合活動と認められること、「学区」の解釈が、原判決の説示するとおりであることは当裁判所も原審と判断を同じくするものであつて、被告の主張は独自の見解に立脚して論ずるものというべく採用できない。その他みぎ認定をくつがえして被告の主張事実を認めるにたる証拠はない。

十、要するに被告が原告堀切の処分事由としてあげる各行為はいまだ明確に「刷新基準要綱」にあたるとはいいがたく、多少その疑いあるものありとしてもその各行為のうち「校内居住における学校管理上の障害」の事由のほかはすべて昭和二十二年五月以前の行為であり、みぎ除外の事由は前示認定のとおり明らかに「基準」に当たらないものである。しかして昭和二十二年五月から本件処分のなされた昭和二十五年二月十五日までは同原告についてなんら処分事由として認めらるべき事実の主張も立証もないのであるから、みぎ処分当時同原告に小学教員として適格性をかくものありと断ずることはとうていできないものといわざるを得ない。

以上の説明によつて本件各控訴はそれぞれ理由のないことあきらかであるから、これを棄却し、訴訟費用は民事訴訟法第九五条第八九条を適用していずれも敗訴の当事者の負担と定める。

(裁判官 藤江忠二郎 谷口茂栄 満田文彦)

(別紙)

第一審原告篠塚敏夫の主張

一、処分説明書に処分事由として明記され且つ審査の裁決書(甲イ第五号証)に処分事由として認められた以外の事由は行政訴訟において新たに主張することはできない(原判決20丁裏以下)との主張について左の通り補足する。

(1) およそ行政処分は一般に処分事由を必要とするものであるが、休職についても、公務員の地位を保障するために休職処分には所定の事由の存在を要することを定めている。従つて処分は特定の事由に基いてのみなされるのであつて、後になつて、別の処分の事由を主張するような事は許されない。もし別個の事由に基いて処分をしようとするなら別個の処分を改めてなすべきである。公務員に対する不利益処分について処分説明書の交附を義務づけているのは、このような処分事由の特定という要請に対応し、公務員の地位の保障を全からしめようとするにある。従つて処分説明書に記載のない事由を後日争訟において主張することを許しては、この目的は全く無になつてしまう。

原判決は、この点について、国家公務員法第九十一条第三、四項の規定を援用して、これを否定しているが、これは処分事由の主張と処分事由の裏附けとなる事実の具体的な提出とを混同しているのであつて、法の意味するところはたとえば、無断欠勤が免職事由となつている場合に何時の欠勤が無断であつたかなかつたというような事実を提出できることをいうにすぎない。ところが本件の場合を見ると「校舎補修」については処分説明書と、本件訴訟における被告の主張とは全く別個の事由となつており、また(三)以下の事由は全く処分説明書に記載がない。殊に(三)の政治活動については、処分説明書には事実どころかかかる条項に該当するということさえ言及するところがない。こういうことまで処分事由として後に主張することができるというのでは処分説明書の交付などということは全く無意味である。

(2) 本件の場合、訴訟の対象は原処分であつて、審査の裁決ではないが、審査の裁決に対して処分庁から訴訟を以て争うことは許されていないのであるから、審査の裁決は確定的に処分庁を拘束する。この場合は、訴訟の対象は裁決庁の処分そのものではく、原処分ではあるが、その原処分は裁決庁の裁決によつて変更されたものとなるべきである。このことは原処分の処分事由が二つある場合に、裁決によつて二つとも処分事由なしとされた場合と、一つだけ事由なしとされた場合とを対比すれば理解できる。まして本件の場合、裁決庁は処分庁それ自身であるから裁決と異なる事由を主張することはおかしい。従つてこれらの点から見ても審査の裁決において、処分の事由とならないと裁決した処分事由(すなわち(三)の(1))を再び訴訟において処分事由として主張することは許されないと解すべきである。

二、各処分事由

(一) 区役所に対する校舎補修交渉

(a) これについては処分説明書においては「校内において同僚と謀つて生徒自治会の決議による区長宛の歎願を要求に改め期日を定めて回答を求めしめ」となつていて職員会議の決議に反したとか、学校長の命令に反したとかいうことは全く主張されていない。ところが被告は原審の第一準備書面においては「同僚と謀つて」という点は削除されて「学校自治会及び職員会議で決議承認した生徒の純真な陳情の趣旨を無視して一方的な強要交渉をした」と変り、さらに第三準備書面において始めて学校長の命令を守らなかつたことを事由とするに至つたのである。このように被告の主張が再三転々するのを見ただけでも被告の主張する事実があやふやなものであるかが推定されよう。

(b) 原判決は証人渡辺甲子男、川上栄一の各証言、篠塚本人の尋問の結果を綜合して校長が職員会議の席上注意し、当日朝改めて指示したことを認定しているが、当日の朝指示したことは誰の証言にもない。また職員会議で指示したことの証言もあいまいであり(原審渡辺甲子男証言第十一項第一段)、むしろ前記川上、篠塚の供述によつて指示のなかつたことを認めることができる。

(c) 原告が区役所においてとつた態度は、原審里見政司の証言及び篠塚本人の供述によつて明かであるが、被告側証人の証言によつても、原判決の認定している「難詰」の程度を出るものではない。村田助役の証言はかなり篠塚を非難しているが、このような証言をしているのは村田だけである。この証言の信用できないことは、原審及び当審の渡辺甲子男の証言、原審の川上栄一の証言、篠塚本人の供述によつて明かなように、村田助役は校舎問題はよくわかつていなかつたのであるが、当人自らだけは知つていたと証言している態度からも推定できる。

(d) また篠塚が難詰するようになつたにしても、それは校長の許可を得て来ているのに区長から授業中来るなといわれたり、原判決も認定しているように助役のあいまいな回答に歯がゆく感じたし、また、既に校長から陳情に行くことを教育課に通じてあり、よく話しておくからと言われており(当審渡辺甲子男証言六項)このことは助役に通じているにもかかわらず、助役は言明の限りでないという態度で接していること(原審村田証言、四項九項)などから段々と言葉がきつくなつていつたものであつて(同証言八項)まことに原審のいうように「深くとがめるには当らない」のである。そうするとそのような事情の下では仮に原判決のいうように若干「校長の指示の趣旨を逸脱し」たとしてもこれを以て休職の事由とすることは不相当である。

(二) 駐在所に対する共産党細胞掲示板に関する抗議

(a) これについては、原判決の判断はまことに相当である。

(b) 昼休みが勤務時間でないとの主張は撤回する。しかし赤塚二中では昼休みの外出はかなり自由に行われていた(原審及び当審篠塚本人尋問の結果)のであり、仮に然らずとするも、勤務時間中の行為だからと云つて本件のような行為が教員の身分を利用したり学校を拠点とした政治活動となるわけではない。

(三) 学校を拠点とし、又は教員の身分を利用した政治活動で教育上支障ある行為これについては処分説明書に、これに相当する事実も、またかかる基準に該当するとの主張さえもない。従つて訴訟上適法に処分事由として主張できないことは、すでに述べたとおりである。また基準(三)の(3)を正当に解する限り、これについては原判決23丁裏24丁表及び本準備書面第三の篠塚の行為はこれに該当するものではない。

(1) 勤務時間中学校内での地区細胞との連絡

これについてはすでに審査の裁決において処分事由として取上げることはできないとしているのであるから、訴訟上適法に処分事由として主張できない。

篠塚が学校において、共産党員と目される者と会つていることはあるが、それは同一校舎内の他校の教員とかまたは一般の来客に会うと同様に会つているだけであつて、特に地区細胞との連絡を図つているわけではない。その間の事情は当審における篠塚本人の尋問によつてまことに明らかである。審査の裁決がこれを処分事由として取上げなかつたのはまことに正当である。また仮に学校で地区細胞と連絡をした事実があつたとしても、それは単に連絡にとどまる限り、学校で教員が私用の来客に会うという行為以上のものではなく、学校の政治的中立を何等害するものではなく、まして教育活動とは何の関係もない。基準(三)の(3)に該当しないことはまことに明らかである。

(2) 神山茂夫生活相談所宣伝隊への小使室提供

これについては原判決は、篠塚が「積極的に導き入れて小使室を利用させたものと認めるに足る証拠はないが、右の世話をしたことは事実」であると認定しているが、「世話をした」との認定は全くの誤りである。原審においては渡辺校長がこれにそう証言をしているだけで、他には高井修が推測を述べているだけである。当審においても高井は推測を述べているだけであり、渡辺校長もやはり初めは原審同様の証言をしたが、裁判長の問に対し「世話をしたというのはバケツを貸し与えるとか、この薪をたけと云つた事です。そういうことを篠塚がやつたということまでは聞いておりません」と訂正している。それは当然で篠塚が世話をしたということは岡野ためから聞いたというのであるが、原審における岡野の証言を見るとと、岡野も「私は篠塚先生が来て御苦労さんと云つたのを覚えております、篠塚先生がその人たちと話をしているのは見たことがありません」「篠塚先生は宣伝隊の人に挨拶しただけで行動は共にしませんでした」と云つている。結局、篠塚が宣伝隊に小使室を利用させたことについても、世話をしたことについても何等証拠はない。この宣伝隊の奇妙な行動の真相は当審の斉藤恒雄の証言と篠塚本人の尋問の結果によつて明らかである。篠塚とは何の関係もない、迷惑至極な話なのである。

(3) 秋本与平宅での共産党入党挨拶

篠塚が学校教育活動としてのいわゆる「家庭訪問」を利用して入党の挨拶を行つたのではなく、始めから入党挨拶それ自体のための訪問であつたことは秋本が原審で「今度共産党に入党したので挨拶に来たといわれました」と証言しているし、原審篠塚の尋問の結果、当審斉藤恒雄の証言によつても明かである。家庭で父兄に対し「生徒の学力は甚しく低下しているが、これは赤塚二中だけの問題ではなく現政府の教育政策の貧困によるものであつて、これを改善するには共産党の教育政策による外ないと考え、今度自分は共産党に入党した」と述べることは政治的な見解の表明であつて学校教育活動ではないことはいうまでもない。文部省も「教員が家庭訪問を行い特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治活動を行つた場合に、その家庭訪問に学校教育活動の内容が含まれているときは、法第八条第二項に抵触するものと解する」といつて(東京都教育長からの照会に対する文部省官房総務課長回答「教育基本法第八条の解釈について」昭和二十四年六月一日委総発第一号)教員が学校教育活動としてではなく、生従の家庭を訪問して政治活動を行うだけでは教育基本法第八条第三項に違反することとはならないとしている。

(4) 共産党入党挨拶状に校印無断使用

原審及び当審における篠塚本人尋問の結果、当審斉藤恒雄の証言。

(5) 職員室内の「アカハタ」掲出

職員会議でアカハタを取ることを否決したのは、親和会費で取ることを否決しただけであつて、個人で取るならよいということなのである。この点については全証言がほぼ一致している。また半年にわたり校長の注意に耳をかさなかつたり、一、二月にわたつて机の上に放置したこともない(原審当審篠塚尋問)。それはともかくとしても、「アカハタ」を職員室内の新聞掛けにかけたり、同僚に閲読させる目的で机の上に放置したりしたとしても基準(三)の(3)に該当することはない。前掲文部省官房総務課長回答も「教員が校内職員会議に於て特定政党入党を動誘すること、」は法第八条第二項に抵触するかとの問に対し「当該行為が校内職員会議で学校教育に影響を与える目的をもつて会議の議題に供して行われるとき以外は法第八条第二項に抵触しないものと解する」と答えている。政党機関紙を同僚に閲読させることなどはなおさらのことである。

(6) 「赤塚二中に首切り」のビラの配付

原審主張の他附加することはない。

(7) 原判決は、以上(1)から(6)までに掲げる事柄の一つ一つを取上げられば軽微であつて、さして深くとがむべき程でないものもあるが、これを綜合して考えるとき、基準(三)の(3)に該当すると判断しているが、一つ一つが軽微なことであることは勿論であるが、それだけでなく、何れも学校教育活動と関係のない一公民としての政治活動であつて、基準(三)の(3)に該当するものではない。それを「綜合」ということによつて基準に該当するという判断を下したのは、明かに篠塚の政治的傾向を問題としているのであつて、原判決は単に、基準に該当するか否かの判断を誤つただけではなく、憲法第十四条に違反する。

(四) 占領政策ひぼう

占領政策をひぼうすることは本来言論の自由の範囲内であつてこれを以て「法令を守らない」とすることは憲法第二十一条に違反する。原判決はこれについて「一旦適法に効力を発生した休職処分が違法となり、またはその効力を失うことはない」と言つているが、いわゆる抗告訴訟においては、違法であるか否かの判断は判決時(最終口答弁論時)の法規によるべきである(雄川一郎「行政争訟法」有斐閣版法律学全集九巻二一九頁二)。

(五) 職員会議の決議無視及び校長の命令無視

(1) 少年協議会参加

渡辺校長は不参加を決定した理由を「前にあつた水害事件の際のように学校の名前を利用されるのではないかと思い教育上の理由で参加しないと決定したのです」と述べている(原審証言十項末段、なお当審斉藤恒雄の証言)。従つて、学校の名前を使わない単なる個人としての傍聴は職員会議の決定に反しない。

(2) 区数学研究会に不出席

研究会の実情及び出席が自由であつたことは原審当審における篠原尋問及び原審川上栄一証言によつて明らかである。研究会出席というような定量外の職務を校長が命ずることはできない。

第一審原告中野清秀の主張

一 (第一審判決の事実認定及理由について)

1、原判決は控訴人中野について、(一)の(1)(2)(3)の認定事実を綜合して、「学校を拠点とし教員の身分を利用して一党一派に偏した政治教育をしたもの」であつて「教育に支障あるもの」と認定し、更に右(3)の事実は占領目的に違反し「法令を守らないもの」に当ると判断し、次に(二)の(1)(2)(3)(4)(5)の事実を綜合して「学校の教育方針又は民主的運営に協力を欠くもの」に当るとした(原判決50丁裏から61丁まで)その各項の事実について控訴人中野が争つているところは原判決の事実に摘示の通りである。本件は控訴人中野の荒川六中教諭としての言動の一部を捉えて評価するものであるから、純然たる事実と之に対する法令の適用とを明瞭に区別することは不可能である。仮に原判決認定のような事実があつたとしてもその評価は原判決の如くなるものではない。

2、前掲「(一)の(1)人民民主義教育方針の主張」の項の如きは原判決も理由で述べている通り意見の発表そのものは何等支障がない。それならば、他の言動と綜合したところで元来休職理由にならない事実を掲げて綜合判断の資料とすることは理由齟齬の違法がある。況んや当時教職一年に満たない年少の控訴人中野をして、自己の教育方針を発表させ、その原稿を密に謄写して置き後日之を休職処分の理由の一に加えるが如きは全く所謂特高的手段であると謂わねばならない。次に「(一)の(2)校長に対する政治教育実施の言明」の項は此の如き、事実があつたとしても、之に対する校長の処置、その処置に対する控訴人中野の態度が処分の対象となるのは格別右の言明自体が処分の対象とはなり得ないと信ずる。

「(一)の(3)共産党支持の教育実施」の項の如く、控訴人中野が斯くの如き説話をした事実があつたとしても、戦時中の言論統制の如く、教室内に於ける教員の片言隻句をスパイして占領目的違反を云々して、休職処分の理由にする如きは全く不当である。況んや既に所謂平和条約の発効により、占領目的違反罪は公訴権が消滅している今日に於てをや。

3、「(二)の(1)(2)及(4)」については、校長福田道善と控訴人中野の意見対立が表面化したものであつて昭和二十三年三月に初めて学校を卒業して四月から教員となつた控訴人中野と校長が口論したとか、教員組合の席上校長を非難したとか、朝礼の際、登壇して不適当な説話をしたとかというような事実を、特に取り上げるのは全く「大人気」ないという外ない、斯くの如きはむしろ学校長が無能であるという一証左である。

「同(3)及(5)の転任協定」と「転任協定違反及荒川地区委員会の介入利用」の項は、外観上「長期にわたる校内紛争」の所謂中心人物として控訴人中野に一部の責任があることは争わない。併し乍ら控訴人中野が転任を拒んだことを以つて「学校経営に非協力」というのは当らない。之は「学校長の方針」と「控訴人中野」の利害衝突であり、此の場合控訴人中野の採つた手段方法が休職処分に価するか否かが判断の対象であらねばならない。従つて、学校長並に上司、その他関係者の態度、言動等との関連に於て控訴人中野の責任を評価せねばならない。

而し乍ら此の間に於ける控訴人中野の言動は、他に適当な学校がないから、転任を拒んだに過ぎない。共産党細胞や荒川地区委員会、特に同委員長池田進等の言動が不当であり、学校の運営に干渉したものとしても、「控訴人中野が共産党の力をかりた」とする証拠はない。

又、此の紛争に際し学校長や区当局その他関係者の採つた手段方法が必ずしも適切であつたとはいえない。これ等の事実から生じた結果を全部控訴人中野の責に帰し、公式には一旦解決した転任取止めの事実を休職理由とすることは違法である。

二 (原判決が判断を脱漏した事実)

1、控訴人中野の本件休職理由を審理するに当つて同人が「昭和二十三年三月に二松学舎専門学校を卒業し、当時荒川六中の校長福田道善が学校に来て卒業生中から是非一人採用したいというので、生徒課長の推選状を貰つて福田校長の自宅を訪問し採用されて同年四月から勤務した」(第一審原告本人尋問の調書)事実は判断の資料として重要である。前掲(一)の(1)(2)(3)(二)の(1)(2)(3)の事実は何れも昭和二十三年中の出来事である。校長福田は、その年の四月に自ら選んで採用した新卒業生に対し、その八月には教育方針を発表させて之を非難し、同年九月下旬には転任を要求する等全く定見なく、学校長として所属職員に対する監督が著しく不適。原判決も「(3)転化協定」の項に於ては、此の事実は学校経営に非協力とはいえないと判断したが「(5)の項に於ては、共産党尾竹橋細胞の名で「六・三制予算削減反対」「六中中野先生首切反対」「六中の教員を守ろう」等のビラが学校周辺に貼付された事実、日本共産党荒川地区委員会委員長池田進が、控訴人中野の転任問題に介入し、結局、控訴人中野の転任は取止めとなり昭和二十四年五月十日校長及教員一同の名を以てて、父兄宛「中野教諭が教育を破壊した根跡がないからこれを留任させることに円満解決した」旨の声明書を送付して事件が解決した事実を認定し、之等は原告が共産党の力をかり、その不当な干渉下に学校運営の民主性を害し学校教育方針に非協力であつた旨認定したものであつたことは明白である。

即ち学校長の監督は所属職員に対し(特に新卒業生であつた場合は)、その性格、識見等を理解し、教育方針に適せない場合には先輩として又、監督者として指導すべき責任があるにも拘らず、自己と考えを異にするや之を嫌忌し、圧迫して、直ちに之を排除しようとするのは全く自己の職責を省みないものであり、この事実が本件に於ける控訴人中野の休職事由とされた総ての事案の原因である。

2、次に、昭和二十三年四月頃から昭和二十四年にかけての社会情勢と控訴人中野の言動との関係を考えねばならない。所謂終戦後昭和二十二年五月三日には新憲法が施行されたが、所謂ポツダム政令(政令第五四二号)との間に違憲問題が争われ、日本の民主化運動が動揺の渦中にあつた時代であり、日本共産党は民主憲法に認められた最大の権利を主張して運動を展開していたので、占領政策と、甚しく矛盾を生じていた。所謂二、一ストの禁止についで昭和二十三年七月二十一日マ元師から芦田首相に対する公務員の争議禁止の勧告、次いで昭和二十三年政令第二〇一号の発布により労働運動に対する制約の方向が著しくなつて来た。控訴人中野の如く知識経験浅く是等の社会情勢の推移について認識なき者が当時の日本共産党の主張を盲信して之に禍誤された事情も充分考慮されなければならない。之を要するに本件の如き事実に対する責任を控訴人中野のみに帰せしめ休職処分にしたことは甚だしく苛酷であり、被控訴人の処置は不当違法であり此の処分は取消さるべきものである。

第一審原告堀切路夫の主張

(一) 担任事務の放棄

(1) 原審判決の冒頭に「校長山路喜太郎は止むを得ず同年九月以降」云々と、控訴人の引用する部分は、被控訴人としても争いがある。被控訴人は、校長は「止むを得ず」原告の担任事務を解いたのではなくして、当時これを当然のことゝして了解して右の措置を執つたものである、と主張したのである。

(2) 控訴人は、当審において、当時控訴人が担当事務を「放棄した」のであると主張し、その放棄を不当としているが、これは事実と異る。

周知のように、昭和二十八年八月の敗戦後、同年十月頃から労働組合運動は次第に昂揚しはじめ、同年十月十一日のマ元師より日本政府に対する労働組合助長の要請、同年十二月の第八十九議会における労働組合法の制定など、一連の措置により、同二十一年に入つてからは労働組合の結成は急激に進み、いたるところに労働組合の結成並に労働組合運動の発展がみられた。

教員間においても、同二十年十二月一日には全日本教員組合(全教)が発足し、同年十二月二日には、日本教員者組合(日教)が発足し、さらに同年十二月二十三日には東京都教員組合(都教)が結成され、引き続き地方における教員組合が続々と結成されて、各地の教組運動、教員組織が活発化しつゝあつたのである。

当時は未だ組合の専従者制度なるものは確立されておらず、これら組合運動や教組運動にたずさわる者は、事実上組合事務に専念し、当局も、組合運動の助長は、当時の連合軍司令部及び政府の方針でもあつたので、これを当然のこととし、何ら異をはさまなかつたのである。

一方、当時は食糧事情や住宅事情等は極度に悪く、国民は衣食住の原始的生活の確保に追われ、校舎は焼け、図書はなく、欠席欠食児童はあふれ、教員の生活は破綻し、教育は正に危機にひんし、今日のごとき正常な授業のごときは到底実施しえなかつたのである。

このような社会情勢からも、当時は教員組合運動は活発をきわめ、選挙されて組合業務にたずさわる者は、組合業務に追われ、それに専念することは当然のこととして容認され一般化され、半ば慣行的に制度化していたのである。

被控訴人堀切も、当時城東区教員組合(昭和二十一年五月十五日結成)の副委員長に選挙されて就任し、組合設立以来、当時の委員長今泉謙らとともに組合業務に追われ、昭和二十一年五月頃より、自然学校の担任事務の方は第二義的にしてもらい、組合業務に専従する恰好となつたものである。同年九月頃からは、教員組織の統一問題や待遇改善問題が重大化し、翌年二月の二・一ストにいたるまで、組合役員は殆んど組合業務に忙殺され、堀切も従つて校長の諒解の下に担任事務を他の教員に担当してもらつたもので、こうしたことは当時専従者制度が制度化されていなかつた組合運動には通常のことで何も堀切に限つたことではなく、当時の情勢上何ら問題とされることではなかつたのである。尚、堀切らが組合結成と同時に、副委員長に選任されるや、組合では委員長及び副委員長を常任制とし、この旨学校長に申し入れてその承認を得ているのである。

(3) 仮りに当時の事実上の専従が労働慣行というにいたらないとしても当時はいまだ労働組合の創世期であり、労働運動のいわば原始時代であつて、今日のごとくその限界や範囲も明確ではなかつたので、労働組合運動に従事していた組合役員らが、当時の一般例にならい、また事実上の専従の状態にあつたとしても、原審判決のいうごとく、「今日の感覚をもつてこれを深くとがめることは当らない。」のである。

(二) 組合の圧力による校長圧迫と学校経営干渉

(1) 都教組大会への赤旗携行、

(イ) 控訴人は、原審判決の「都教組大会への赤旗携行」を否認し、「国民大会への」それ、と主張するが、事実は、正確には、昭和二十一年十一月六日の東京都教員労働組合(都教労―現在の都教組の前身)の第二回大会のことである。

(ロ) 控訴人は、「当時は未だ『支部組織』はなく」と主張するが、城東区教組は、同年十月三十日右の都教労に加入を決定し、同日より「都教労城東支部」となつたものである。

(ハ) 「白い布」は、附けて行つたことは事実である。

(ニ) 東京都教職員組合(都教組)が結成されたのは、控訴人のいうごとく翌二十二年七月であるが、その前身の東京都教員労働組合(都教労)は昭和二十年十二月二十三日四谷第六国民学校において結成大会を行い、結成され、これが母体となり、前身となつて、後に都教組に発展したものである。

(ホ) 控訴人は、「この大会当時は、未だ都教員間に斗争意識など盛り上つていなかつたし、また都教組の賃上げストもなかつた」と主張するが、事実は、右都教労は昭和廿一年十月三日、給与最低六百円の要求をかゝげ、このためにはゼネストをも辞せず、との決議をなしており、同月十八日には、全国都道府県の教員組合代表が集まり、(全国教員組合代表者会議)東京に中央斗争委員会を結成、最低俸給六百円支給その他六項目を要求事項として決議し、組合員の斗争意識は向上して、さらに年末斗争から翌年の二・一ストにいたるまで斗争の連続となつたことは、当時の一般商業新聞紙の報道によつても顕著である。

控訴人の主張は、当時の右のような事実を全く無視しているものである。控訴人の主張こそ、その云うが如く、「根底から事実に反している」のである。

(ヘ) 又、控訴人は、「一般の国民大会であつたればこそ、浅間小学校の職場会では、教員の規律として、これに参加すべきか否か………が烈しく論議された」と、主張するが、これは全く事実と異る。職場会では、大会に参加するか、どうか、が論議された事実はない。赤旗を組合の旗として携行していゝか、どうか、が討議される時は、山路校長のみで、簡単に携行すべし、と決議されたのである。

(ト) 又、これは、職場会における討議であつて、校長の発言も、その一員としての意見として出されたのであり、堀切の発言もまたその一員としての意見として出されたのであり、これが討議されたのであつて、校長の意見も、校長の権限に立つての携行を禁止する、という命令的なものではなかつたのである。職場会において、校長の意見に対し、反対意見を述べたからといつて、これが「法令或は指揮監督者の正当な命令を守らないもの」とされ、休職事由にされるのであつては、たまらない。職場会の民主的運営などはは、全くのぞみ得なくなる。

(チ) 控訴人は、「仮りに若しこれが都教組の大会であり、且つこの赤旗が城東支部の組合旗であつたとするならば、頭初より、これを携行すべきや否や」が争われる筈がない、と主張するが、校長は、赤旗を組合旗として持つて行くのは好ましくない、との意見を述べたのであり、堀切は、赤旗は共産党の旗ではなく、団結のシムボルであるから、組合旗としてもつて行つても差支えないではないか、との意見を述べたのであり、校長が右のような「云いがかり」をつけたればこそ、論議がなされたのである。

これが組合の大会であつて、国民大会ではないこと自体は、原審において、控訴人自身が、何回も自白している。(例えば、昭和二十六年九月一日付準備書面中、(原告堀切路夫に対する処分理由概要、一の(2)の(イ)))

(2) 赤旗のつるし下げ、

(イ) 原判決の冒頭に「原告が区教組の組合旗として使用していた赤旗を(中略)廊下に吊下げていたことは当事者間に争ない」とあるが、被控訴人(原告)は、被控訴人がこれを吊下げたことは認めていないので、この点は、原判決の事実摘示を争う。被控訴人の記憶ではこれは若い執行委員たちが吊下げたものと思う。

(ロ) 控訴人は、右の吊下げられた旗を組合旗ではない、と主張するが、当時組合旗以外の赤旗はなく、又それに外のものを吊り下げる必要もなかつたのである。吊り下げられた動機は、恐らく組合の所在を強く示すためと組合意識の向上をめざしたものであろう。

(ハ) 被控訴人は、組合が校長の承認を受けず、勝手に、職員室の隣室を事務所に使用した、と主張するが、これを組合本部として使用させてもらうことは、当時本部として、校長の許可を受けていたものである。

(ニ) 被控訴人は、原判決が、赤旗を吊下げたのは、「校長の純教育中心主義に対する斗争の気勢を掲げるためにしたもの」(原判決には、この控訴人引用のような文章又は部分はない)と認定したかのように主張しているが、原判決は、組合の(政府当局に対する)斗争の過程において、校長の純教育中心主義と組合の、斗争を通じて教育を守ろうとする対立が、事毎に表面化しつゝあつた、と判示しているのであつて、「校長に対する斗争」などと云つているのではない。前述したように、組合の斗争の目標、斗争の相手はは、政府当局、文部当局であつて、校長ではなかつた。「校長の監督権拒否」等が、当時の都教労の賃上げスト準備指令に一つの、戦術としてかゝげられたのは事実であるが、それは当局に対する目標貫徹のための一の手段、一の戦術として採られたのであり、斗争の目標、斗争の相手が校長であつたのではない。この組合の斗争の進展に伴い、校長は純教育中心主義を主張し、組合は、組合の斗争を通じて教育を守るべし、この立場に立ち、斗争の過程で、斗争と教育という問題で対立が生じたことは事実であるが、

控訴人のいうように「校長の純教育中心主義に対する斗争の気勢を掲げるために」とは、原判決も云つていないし、事実も反する。

(ホ) 尚赤旗は何も共産党の旗ではなく、わが国ではむしろ労働組合旗である。今日、反共的な労働組合であつても、その組合旗は多く大部分が赤旗である。恐らくわが国の労働組合の九〇パーセント以上は赤旗を組合旗としているのがわが国の実情である。現に現在の東京都教職員組合(都教組)の組合旗も赤旗であり、裁判所職員で組織する司法職組のそれも赤旗である。その他わが国の代表的組合の旗は、みな赤旗であるといつてよい。赤旗は、現在のわが国の社会通念では、労働組合旗であつて、必ずしも共産党の旗に限らない。

共産党の旗は、単なる赤旗ではなく、それにハンマーと鎌又は星のマークが入つている。厳密には、単なる赤旗ではない。

(3) 職場会開催による授業の放棄、

(イ) 控訴人は、被控訴人が当時浅間分会の指導者であつた、と主張するが、当時の分会委員長は石毛一であり、被控訴人は浅間分会の役員ではなかつた。従つて分会の職場会は、分会において、分会の役員が召集し開催するもので、分会役員でも、責任者でもない堀切が、これを開催する筈がない。又これを開催した事実もない。勿論、控訴人のいうように、被控訴人が、校長から注意を受けたことなどはない。むしろ、被控訴人は、分会には役員でもないので、本部に専従の状態であつたので、分会の職場会には出られず、欠席することが多かつた。

(ロ) 控訴人は、被控訴人が、校長の注告に対し、「かゝる時勢に、そんな」云々と豪語した、と主張するが、かゝる事実は全くない。とんだ言いがかりである。

(ハ) 当時、分会の職場会がしばしば開かれたことは記憶しているが、それは斗争がはげしく進展しているときであり、浅間分会に限らず、全国的、全都的な現象であり、又児童の授業放棄をかへりみなかつたというのは全く事実に反する。

(4) 校長無視の風潮惹起、

(イ) 控訴人は、原審が「右の事態は、原告個人の計画、指導したものではなく、組合本部の指令に基く斗争方針の結果であるばかりでなく、分会の組合活動によつて生じたる事態と見るべきである」と判示認定したのに対して、「しかし組合本部からは叙上の如き指金は全然なかつたのである」と主張する。

(ロ) 昭和二十一年春頃から、食糧危機、インフレ昇進、政治的、社会的混乱等のため、教員の生活も危機にひんし、その竹の子生活もすでに低をついて、一般労働攻勢ことに全官公働者の共同斗争開始と共に、教員組合の斗争活動も大きく進展、同年六月の都労連の単独斗争をはじめとして、つゞいて十月攻勢といわれる共同斗争、さらに越年斗争から、翌年の二・一ゼネストにいたるまで、ほとんど斗争の連続という状態が続いた。

この中にあつて、都教労から出された指令で、本項に関係のあるものを、あげてみると、

(A) 昭和二十一年六月十五日、都教労では、都労連(東京都労働組合連合会)の業務管理準備態勢の指令に応じ、教育管理実施案を作り、その一項に「文部省並に都教育局の命令を全面的拒否」をかゝげ、又「父兄、教師による学校の自主的運営」なる項目をかゝげ、同月二十日、当局との交渉決裂したので業管斗争突入を決議して、翌二十一日から一斉に業管宣言を行つた。これは六月三十日、安井都長官との協定成立、業管打切りまで続いた。

(B) 同年十月に入り、最低俸給六百円支給を目標とする最低生活権獲得全国教員組合大会をきつかけとして、前述の文相面会拒否等の事態に発展し、斗争は長期にわたり空前の「教員争議」となり、十一月六日、全教組は一都、二府三十三県の代表八百名を招集、第二回全国大会を開き、当局が態度をあらためず、最悪の事態に至つたならば、一斉総罷業をも決行する旨決議している。

十一月十二日には、都教、都教協、未加盟の神田等の中立組合が協議会を結成、共同斗争を決議している。十一月十六日には、全官公労協、国鉄、全逓、全教組等の官業労働代表が集まり、共同斗争委員会を結成、共同斗争の声明を発表した。

東京でも都教傘下二十四支部、中立系各組合、都教協の一部の間に、東京都教員組合共同斗争委員会が結成され、十一月二十日、共同して罷業態勢確立大会が開かれた。

十一月二十五日、全教組では、全国組合長会議を招集して、一斉罷業実行計画案を発表した。

十二月七日、斗争開始以来五十日、文部省と全教組の交渉はついに決裂した。

かくして、全教組は、中労委に対して調停申立をなした。

(C) 当時の教員争議をめぐる一般情勢は右の如くであつたが、このうちにあつて、東京都教員労働組合では、十二月五日、共同斗争本部で斗争委員会を開き、スト準備に入ることを決定して、左記のスト準備の指令を、傘下各支部に発した。

一、各学校ごとに斗争委員会を設け、学校の運営を行う。

二、校長の学校運営権を大副に制限するか、全面的否認を行う。

三、現段階の斗争強化に差つかえあると考えられる不必要な行為は一切行わない。(学芸会、展覧会、研究会、文書通達)

四、斗争強化の方法を各職場毎に具体化し、即時実行する。

(D) 浅間校に於ても、右にもとづき斗争委員会が設けられ、斗争委員長は石毛教頭がなつた。被控訴人は城東支部にいたので浅間校斗争委員とはならなかつた。

(ハ) 控訴人は、「組合本部からは叙上の如き指令は全然なかつた」と断定するが、事実は、右のごとく、都教労本部から右の有名なスト準備指令が発せられ、これが実施に移されたのである。浅間小学校の事態は、何も浅間に限つたことでなく、当時の教員争議の一反映にすぎなかつたのである。いわんや、これを一個人たる被控訴人が惹起した事態であるなどと主張するにいたつては、それこそ事実誤断も甚しく、笑うべき幼稚なる事実観察というの他はない。

(ニ) 控訴人は、さらに、かくのごとき「学校運営に関する校長の職務権限を否定」することは、明らかに「法令違反」であるというが、そもそも、争議権は経営権を拒否し、業務命令に従わぬ本質を有するものであるばかりでなく、当時は、未だ教員の争議権については何ら法令上の制限はなく、争議の合法又は違法性の限界についても、現在のような明確なものはなく、かなり大幅に争議の自由が認められていたのである。

(ホ) 又、仮りに、現在の感覚を以て、当時の教員争議が行き過ぎであり、違法のものであると考えられても、右争議等は、被控訴人が計画したものでも、指導したものでもなく、被控訴人は本部の指令に従い、支部委員として忠実に行動したまでゞである。

(5) 校長無視の具体的行動「卑怯者よ去れ」

(イ) 問題の貼り紙が、被控訴人の書いたものでも、貼つたものでもないことは、原審以来、被控訴人の主張するところである。とんだ濡衣という外ない。

(ロ) 原判決が、右につき、「原告が自らなし、又はこれに関与したものであることを疑わしめるものではないが」と判示しているのは、控訴人の主張に阿つたもので、不当である。

(ハ) 控訴人が、新たに主張している、被控訴人の発言等は、事実に反するから否認する。

(6) 平野教諭の都主催講習会出席妨害

(イ) 事実は、浅間分会の職場会で、平野教諭の講習会出席の可否が討議されたさい、被控訴人のなした発言をとらえたものである。原判決が、被控訴人が平野に対し、個人的に説得したことは、当事者間に争いがない、としているのは、やゝ事実に反し、訂正を要する。

(ロ) 堀切の発言は、すでに組合は、昨年末斗争態勢に入り、都教労の前述スト準備指令にも、業管を指令し、その第三項に、前述のごとく、

「三、現段階の斗争強化に差つかえのある不必要な一切の行為は行わない(学芸会、展覧会、研究会、文書通達)」とあるので、これに反する行為は、排斥すべきだ、との見解に立ち、これに基く意見であつた。

(ハ) 教員組合としては、前述のように、前年十月頃より、当局との間に交渉を続け、斗争態勢に入り、十二月初めに交渉決裂して、都教労本部からは、十二月五日、前述の有名なスト準備指令を発した。年末にかけて、業管斗争は全国に波及して、ついに年を越えて斗争は続いた。

一方、前述の如く、十一月十六日には、全官公との共同斗争が始まり、かゝる全官公との共同斗争の中に、右の教員争議が大きな発展をみせたのである。

(ニ) 二十二年一月当時は、教員組合は、右の斗争中であつた。平野教諭の講習会出席を不当とする意見は、控訴人の主張するように、業務管理を云々しなくとも、前記のスト準備指令三、「斗争強化に差つかえのある不必要な一切の行為は行わない」との指令にもとづくものであつて、右指令は当然組合員に対し、かかる行為を排除するよう要請しているものである。

堀切が右にもとづき、前記の意見を述べたことは何ら不当でもなく、違法でもない。

(三) 新校長受入れ反対運動

(1) 原審判決は、原告(被控訴人)が、区当局の係員に対し「『組合員の総意によつて公選した候補以外の者から任命した校長は拒否する。他区から城東区に赴任する校長は組合で審査した上でなくては認めない』と主張したことは当事者間に争がない。」

と判示している。しかし被控訴人(原告)は、原審において、昭和二十六年九月四日附準備書面(第二)において「但し、記載の堀切の発言は真実と相違するものが多いので否認する」と明かに陳述しているのである。

(2) そもそも、本問題は、何ら新校長の受入れ反対斗争というものではなくてその本質は校長公選の組合運動であつた。

(3) 昭和二十二年三月とくに新制中学発足に当り、校長公選運動は東京都においても広汎に具体化し、前述の都教労は、同年三月十四日の代議員大会で、「教育民主化」の一環として「校長公選」のスローガンをかかげ、斗争方針をかかげた。城東区教組の校長公選論も、何ら独自のものではなく、その一環として取り上げられたもので、何も被控訴人らが独自に運動を展開したものではない。

(4) 同年四月二日、城東区教組の総会を第一大島小学校において開いた。そこで校長公選運動の具体的方針を決定し、新校長候補者は組合において選出する、区教組においては三名を選出する、ということになり、同月十日、全員選挙の方法によつて候補者を選出することに決定し、その選挙の結果、吉田、石毛、是木の三氏が組合選出の候補者となり、区教組より、この旨区及び都教育局とに申入れをなした。

(5) 城東区教組の総会で、前述のように、三人の新校長候補者を選出し、これを発令されるよう当局に申入れることになつたので、被控訴人も組合代表の一員として都教育局及び区当局に再度交渉に行つたが、教育局では上村初等教育課長に面会したところ、同課長の話では、本問題については、区の方が強い発言権をもつているから、区の意向をまつてからでなければ、というので、城東区役所に申入れに廻つた。区で交渉の相手になつたのは、佐藤視学であつたが、組合の申入れに対して、全然受付けず、交渉は物別れとなつた。その際の被控訴人らの佐藤視学に対する発言は、組合で校長候補者を選出したから、これらの候補者をぜひ発令されるよう区からも上申してもらいたい、という要求の申入れに終始したのである。これに対し佐藤視学は、組合の選んだ校長候補者をそのまま区として上申することは出来ない、という回答で拒否した。

(6) 区と右のような交渉をしているうち、四月十八、九日頃当局より突然三人の新校長の発令をみた。被控訴人らは、右の発令については全然当局が組合に了解も通知もなく抜き打ち的であつたので、もう一度組合の要求を考慮してもらう必要があるというので、再度区及び教育局と交渉に当つたが、組合の要求は容れられなかつた。

(7) 同年五月に入り、この問題をどうするかということで、区教組の第三回大会をもち、討議したところ、組合で推薦した三人の内一名の是木氏は校長に任命されたので、残りの石毛、吉田両氏については当局に今後考慮してもらうということで、この運動を終ることになつた。

(8) 以上のように、この校長公選運動は、当時組合が教育民主化運動の一環として人事の民主化を提唱し、その一つとして行つた適法な組合運動であり、組合公選の校長を任命せよというのであり、組合が代つて校長を人選し発令し、その校長が就任したというものではなく、何ら控訴人の主張するような任命権侵奪の問題ではないのである。又数回の大会決議をへて行われたことであり、これに対し被控訴人の個人責任を云々するなどは、全く論外というのほかない。

(四) 校内居住における学校管理上の障害

(1) 控訴人は被控訴人が昭和二十三年四月頃から翌二十四年七月までの一年三ケ月もの間、浅間小学校の校内宿直室の隣室に居住を続けていたこと、その間「深夜帰校したり、夜間多数の者が出入したりして」居住振りが傍若無人的であつたこと、主張して、それは基準(二)の(2)の「学校の民主的運営に非協力」に該当すると主張する。

(2) 先ず、被控訴人は「少しの間」といつて校長の承諾を得ながら、居住の期間が一年三ケ月にも及んだことを非難しているが、被控訴人は昭和二十二年五月頃から居住を始め、当時は恰も前述の校長公選問題のさいで浅間小学校には未だ校長の着任なく、被控訴人は石毛校務主任の承諾を得て居住させてもらつたので「校長」との間に、控訴人主張のような約束があつたというのは事実と反する。

又当時は、教職員としても深刻な住宅難の時代で、例えば昭和二十二年度における校内居住教職員は、東京都内だけで実に二千三百六十二世帯に及んでいたのであつて、浅間小学校においても、被控訴人のほか数世帯の教員が校内居住をしており、その状態は昭和二十四年以降にまで及んでいたのである。一旦居住した教員は、当時の薄給では到底他に移転又は転出は困難であつていずれもかなり長期にわたつて居住していたのが実情である。

(3) 控訴人は、被控訴人の居住振りが「傍若無人」であつたと非難するが、被控訴人は、同所に女を引張り込んだとか、酒を飲んで騒いだとか、風紀上又は教育上好ましくない居住をしたことは一度だにない。被控訴人は、当時組合の専従者で、城東区教組のみならず、東京都教労の中央委員にも選出され、組合運動のため、極めて多忙であつた。それがため、時に帰りが遅かつたり、又来訪者も他に比べて多かつたようには思うが、ことさらに喧騒にわたるとか、四囲の非難をこうむるような状態では断じてなかつた。

(五) 共産党公認候補の選挙運動

(1) 原審の判示認定事実には、被控訴人としても不服がある。又当時「都教組」なる名称の組合はなく、東京都教育労働組合(都教労)という名称であつたことは被控訴人の主張する通りである。

(2) 事実は次の通りである。

昭和二十二年四月の地方選挙にさいして、教員組合においても、他の労働組合と同じように選挙対策をたて、選挙斗争を行う方針を決定し、とくに都教労においては選挙対策委員会を設け、都教労推薦都会議員候補者として五名を選び、選挙斗争を推進することになつた。

問題の関は当時都教労の副執行委員長であり、右推薦候補者五名中の一人であつたもので、被控訴人は当時都教労の中央委員であつた。右五名の立候補者の選挙区は、前述の選挙対策委員会において決定され、関は城東区より立候補することになり、被控訴人が城東区教組出身の中央委員であつたので、その出納責任者とされたわけである。

城東区教組としても、右上部機関の決定に従い、選挙斗争の方針を決定し、関候補をその政党所属を超越して組合推薦候補者として推薦し、選挙運動を行つたのである。

(3) 要するに本件関の選挙運動は、組合の決定にもとずくもので、組合運動の一環としてなされたもので、なんら共産党という政党的立場からなされた決定にもとずくものではなかつたのである。

(4) 当時は、現在のように教員の政治的活動や選挙運動を制限する法令(昭和二十三年政令二百一号及び地方公務員法)はなく、かなり広汎な活動の自由が存在した。(ことに教員が教育者の地位を利用しての選挙運動を禁止されたのは、昭和二十五年五月一日施行の公職選挙法(昭和二五・四・一五、法第一〇〇号)第百三十七条において「教育者は、学校の児童、生徒及び学生に対する教育上の地位を利用して選挙運動をすることができない」と規定されて以降のことである。

(5) 右の諸法令又は本件で問題の昭和二十一年十一月二十六日附東京都次長からの通牒は、いずれも国民の憲法上保障せられた基本的人権(表現の自由、ひいては政治活動の自由)を制限するものであるから、仮りにこれを合法のものとしても、制限規定の解釈は極めて厳格になすべきものであり、拡張解釈は許されるべきものではない。

右通牒中の「学校内」の解釈は、原審判決のいう通りであり、これを「学区内」にまで拡張すべきものではない。

右通牒の趣旨は、治安警察法等が廃止され、教職員及び学生生徒の政治上の結社加入又は政治活動等は自由となつたが、最小限学校内で教職員及び学生生徒の政談演説や特定政党、特定者の支持乃至推薦行為等はさせてはならないという程度のものであつて、学校内で濫りに政治演説や一党一派に偏する政治活動をすることは「学校」というものが教育の中正を保つてなされなければならない「場」であり、教職員及び学生らは、そこでは一般人以上の特権を有するところから、最小限その特権を利用する運動や活動は制限すべし、という趣旨であり、それでこそ右通牒は合法性と合理性とを有するものと言わなくてはならない。

(6) もし、これを学校外にまで拡張し「学区」においても禁止したものとすると「学区」となれば教職員以外の他の候補者らは、自由にそこにおいて選挙運動や政治運動をなしうるのに、教職員だけは運動や活動ができないということになつて、ひとしく国民でありながら、何ら当時法令の制限がないのに、不当に右の通牒によつて制限をうけ、差別待遇を受けることになり、通牒自体の違法性なり違憲性が論議されることになるのである。

控訴人の主張をとるならば、ことに上級学校の教職員ほど、学生生徒の通学範囲が拡がるにつれ、教職員の政治活動は広汎に制限せられることになり、それこそ不当な結果とならざるを得ない。

(7) 又右の通牒であるが、これは東京都次長から各校長宛のものである。校長はこれにもとずき右の趣旨を教職員及び学生生徒らに徹底周知させる措置を講ずべきであるのに当時被控訴人らは、このような通牒の存在自体すら知らなかつたのが実情である。当時は未だ法の不備乃至空白時代であつて、それこそ現在の感覚をもつて当時の行動を評価判定することは全く不当である。

(六) 刷新基準要綱の精神と被控訴人堀切の処分理由について。

本件処分は昭和二十五年一月二十日作成成立の刷新基準要綱にもとずき、同年二月十五日行われたものであることはいうまでもないが、このいわゆる人事刷新はその目的精神にかんがみ、処分時における、またはそれに近い被処分者の言動を対象とすべきものであつて、あまり過去にさかのぼり、その言動をとらえて、基準を適用することは、刷新の目的精神に反するものといわなくてはならぬ。

堀切の処分理由を見るに多くは昭和二十一年から二十二年初にかけての言動ばかりであつて最後のものであつても二十二年五月ころまでのものである。これは、刷新基準発表時より約三年間も前のことであつて、しかもその大部分は組合活動に関連したものばかりである。しかも当時の組合運動のテンポ並に変遷は激しく、当時の一年は、今日の五年、十年の変化にも相当する。かかる変遷のはげしいとき、処分時よりもはるかに遡つて、その言動をとらえ、(仮りに三年後から考えて多くの行き過ぎと考えられる言動があつたとしても)これを処分理由とするなど全く不当というのほかない。二十二年以後、二十五年までは堀切には何らこれに該当する事由はなかつたのである。

第一審被告の主張

原審判決の理由中、被控訴人堀切路夫に関して判示認定した各事実は、左記の如く真実と相違し、甚しく事実を誤認している。

(原審判決理由は各事項毎に分類して説明しているので、便宜上その項目分類に従つて記述する)

(一) 担任事務の放棄

原審判決の冒頭に「(前略)校長山路喜太郎は止むを得ず同年九月以降原告の担任事務を解き他の教員に交替させたことは当事者間に争がない。」

とあるが、控訴人(被告)は「校長山路喜太郎は原告の担任事務を解いたのではなくして、堀切が擅に担任事務を放棄してやらないので、止むを得ず同年九月以降原告の担任事務を他の教員に担任せしめた。」

という意味の主張である。

凡そ学校教員として学級担任(児童担任)は学校教育上実に重要の事柄であるので、教員としても学級を担任するには、自らその資格がきまつていて、その学校の職員であるならば誰でも差支えないというものではない。校長としても、どの教員をして、どの学級を担任せしめるかについては、職員会議等に計り、慎重に考慮し正式の手続によつて担任をきめたり、又はこれを解除したりするものである。従つて学級を担任している教員は、自己の恣意のまゝにその担任を放棄したりこれを懈怠することは教員としての重大な職務違反であつて、その理由の如何に拘わらず断じて許容されるべきものでないことは云うまでもない。しかるに原審判決は恰も「校長が堀切の学級担任をはずした」ものと認定し、この認定を前提として、かく校長が堀切の担任をはずした上からは「堀切が組合事務に専念したことは当然の結果であるから、爾後の本務放棄は、これを休職事由として取上げることは不当である」と結論づている。

がしかしこの前提は全く事実の誤認であつて、左記詳述の通り、校長が、堀切の担任をはずした(解いた)のではなくして、堀切自身が、組合事務に専念するの余り、教員としての当然の職務である担任事務を擅に放棄して顧みないので、校長としてはそのまゝ打棄ておくわけにゆかなかつたので、極めて変則的ではあつたが、専科教諭である平野清司をして堀切の担任事務を弥縫的に担当せしめたのが真実の真相である。従つて堀切が担任事務を放棄したのは不当であるとする所以であつて、原審判決はこの事実を全く誤認して判断の理由としている。蓋し、堀切の勤務していた城東区浅間小学校の昭和二十一年の学級数は十六学級あつたので、学級を担任する資格のある教員の各一人が、一学級を担任するとすれば、十六名の教員がなければならぬことになつていたのである。そして同校の同年四月一日名簿上の教員記載数は、三十四名であつた。この中、未復員者七名、休職者一名、適格審査未定者四名、分娩休養者一名、他へ転出未発令者二名合計十五名は、この学校に名義上教員となつているだけであつて実際には学級を担任することのできない人々であつたので、これを差引いた残りの十九名が真の可働教員であつた。しかしこの十九名の中から、なお校長一名、校務主任一名、専科教諭(図工専科平野清司)一名の計三名は学級担任をしない教員であつたので、堀切を加えての残り十六名で、十六学級を担任することになつていたので、一名たりとも学級担任をはずす余裕などはなかつたのである。

同年九月十八日(即ち本件当時)の同校の名簿上の教員記載数は三十一名であつて、その中、未復員者六名、適格審査未定者四名計十名は名簿上教員となつているだけであつて、実際には働けない人々であつた。これを差引いた二十一名が可働教員であつた。しかしこの二十一名の中から校長一名、校務主任一名、専科教諭(平野、星)二名、分娩前(古川)一名の計五名は学級を担任しない教員であつたので、これ亦堀切を加えて残りの十六名で十六学級を担任することになつていて、これ等担任者の中、一名でもその担任を放棄又は懈怠すれば、直ちに学校運営に甚しい支障を生ずる状態であつたのである。

斯の如き状況であつたので、校長が堀切の担任事務をはずすべき道理もなく、また学校の実状からしてその担任をはずすことは絶対に出来なかつたのである。しかるに堀切は擅に組合事務に専念して教員として当然の職務である学級担任や校務担任の本務を放棄して全く之を顧みないので、山路校長としては、このまゝ放任しておくことができないので、止むを得ず本来学級担任をすべき筈でない専科教諭の平野清司をして弥縫的な間に合せに堀切の学級担任事務を担任さしたのである。この点からしても堀切が本務を放棄したのは学校の運営に対し著しく支障を来たしたことは明らかであるので、原判決が堀切が「組合事務に専念したことは当然の結果であるから、爾後の本務放棄はこれを休職事由として取上げることは不当である」として控訴人の主張を排斥したのは、実に失当の甚しいものといわざるを得ない。

なお原判決は、それに続いて証人佐藤光雄の証言を引用して「担任をはずす前の本務放棄についても、当時このようなことがかなり大目に見られていた」ので「今日の感覚をもつてこれを深くとがめることは酷に失する」と判示認定している。がしかし当時の浅間小学校で、学級を担任させる教員に、一人でも余裕があれば或は「大目に見る」ようなこともあり得ないことでもなかろうが、しかし当時の浅間小学校に於ける教員の実情は前記の通りであつて、一人でも担任をはずすことは絶対にできない状態であつたので、堀切の自恣的な本務の放棄を「大目に見る」ようなことは到底あり得なかつたのである。しかるに堀切は恣に、この重要な任務を放棄して顧みなかつたため、止むを得ず、本来ならば学級を担任させることのできない図工専科の教諭である平野清司が、間に合せ的に補填せしめられる結果となつたのであつて、かくの如き結果を惹起せしめた堀切を非難することは極めて当然の事であつて、毫も過酷ではないのである。

(二) 組合の圧力による校長圧迫と学校経営干渉

(1) 都教組大会への赤旗携行

原判決はその見出しに

「都教組大会への赤旗携行」と書いているが、これは「国民大会への赤旗携行」であり、またその説明に「(前略)原告が皇居前広場に於いて催される東京都教職員組合大会に出場するにつき(中略)当事者間に争がない」とあるが、これは「国民大会に出場するにつき」であつて「東京都教職員組合大会」ではないので、然様御訂正を願いたい。

次にその理由の中に

「当時赤旗に城東支部と記した白い布をつけて、組合旗のような役割をしていた云々」とあるが、しかし当時は末だ「支部組織」はなく、従つて「組合旗のような役割」などすべきものではなかつた。

またこの「赤旗」には「城東支部と記した白い布をつけて」いなかつたのである。

この大会は昭和二十一年十二月十七日に行われた「国民大会」であつて、都教組が結成されたのは翌昭和二十二年七月五日であつて同年九月二十七日正規の届出があつたのであるからその前年の十二月上旬のこの大会が東京都教職員組合大会である筈がない。且つこの大会当時は、末だ都教員間に闘争意識など盛り上つていなかつたし、また都教組の賃上ストもなかつたのである。

従つて原判決が

「当時としては赤旗を持つて組合大会に参加することは、組合活動として通常の事に属し、昭和二十二年の二・一スト間近の当時の社会情勢上、皇居前広場の都教組大会がどのような政治色を帯びていたからといつて、その大会そのものが当時として教員の正常な組合活動として許されたものである以上、これに赤旗を携行すること自体は正常の組合活動に含まれるものといわねばならない。」

と判示認定しているのは、根底から事実に反している重大なる誤認である。斯の如く教員組合の大会におらずして、一般の国民大会であつたればこそ、浅間小学校の職場会では、教員の規律として、これに参加すべきか否か、また参加するとしても「赤旗」を携帯すべきや否かが烈しく論議されたのであつて、これに対し山路校長は「赤旗は共産党の旗印であるから、教員として携帯することに賛成できない」と強く反対したにも拘わらず、堀切は、校長のこの意見を無視し自己の主張を貫いて赤旗を携帯して参加したのであつて、これを指弾するのである。

しかるに原判決は

「赤旗を持つて大会に参加することを禁止する権限は校長になかつたのである云々」

と判示認定しているのは、前記の如くその前提に於て既に根本的に誤認しているがために、斯の如き認定となつたのである。

仮りに若しこれが都教組の大会であり、且つこの赤旗が城東支部の組合旗であつたとするならば、頭初より、これを携帯すべきや否やにつき斯の如き論争や校長としても前記の如き制止をする筈はないのである。

(2) 赤旗のつるし下げ

原判決の冒頭に「浅間小学校の職員室の隣室に城東区教組の本部が置かれていたこと、原告(被控訴人)が区教組の組合旗として使用していた赤旗を(中略)廊下に吊下げていたことは当事者間に争ない」

とあるが、前記((二)の(1))の如く、その吊下げていた赤旗は「区教組の組合旗として使用していたもの」であるということは、控訴人の争うところである。また控訴人は、その判示説明中に「組合旗として使用していた赤旗云々」とあるのは「組合旗ではない」と主張するものである。

原判示認定の如く原告(被控訴人)は予め学校の管理者たる山路校長の承認を受けず、又正規の手続を経ずして、城東区教組の副執行委員長たるの地位を利かせて恣に同小学校の職員室の隣室を事実上同教組の事務に使用していたものであつて、その部屋の前の廊下に赤旗を誰からにも容易に見得る状態に天井から吊下げていたのである。

斯の如く赤旗を吊下げていたのは、区教組事務室の所在を標示するためではなくして「校長の純教育中心主義に対する闘争の気勢を掲げるためにしたもの」であることは原審判決の認定の通りである。

そして当時の状況からして「赤旗から受ける感じは一党一派に偏した感じを与える」ものであり、しかも小学校の職員室の隣の部屋の前の廊下に長期にわたり赤旗を吊下げて置くことが学童に対して好ましからざる心理的悪影響を及ぼすことは云うまでもないことであるので、教育の中立性を厳守しなければならない教員の行為としては、大いに非難さるべきものであつて現に当時、教員間に於てこれを憂慮して「実にこまつたことである。何とかして撤去させることはできないか」と話合つたこともあり、また一、二の父兄からも学童に対する心理的悪影響を憂慮して、校長などに「これを撤去するよう」抗議的な強い申入があつたほどである。

がしかし当時校長の純教育中心主義に対する闘争意識、就中浅間小学校内に於て被控訴人堀切が、その副執行委員長としての指導力は、全く傍若無人的に極めて強力であつたので、たとえ原判決の云うが如く「廊下の管理は校舎管理権を有する校長の権限であつて、校長が教育上ないし学校経営上の問題として重要視した」としても校長としては、如何ともすることのできない状態であつたのが事実の真相である。

寧ろ斯の如く学校の管理権を有し且つその学校に於ける教育につき全般的な指導権を持つていた校長さえ、斯の如き非違非道に対し、抗議も云えず、撤去の要求もできなかつたところに被控訴人の非違の潜勢力の強力性があつたことを如実に物語つているのであつて、被控訴人がその強力な潜勢力を傍若無人的に振り廻して斯の如き非違をしたことに対し、控訴人としては甚だしく非難さぜるを得ないのである。

(3) 職場会開催による授業の放棄

都内の小学校は、何処も皆、教員が職場会を開催しようとするときは、必ず予め校長の許可を受けなければならないことになつていた。本件浅間小学校も亦これと同様であつた。しかるに被控訴人は、浅間小学校に於ける浅間分会の指導者として、自己及び他の教員の勤務時間中であるにも拘わらず、しばしば予め校長の許可を受けずして擅に職場会を開催して、学童に対する正規の授業を放棄せしめた。山路校長はこれを黙止することができないので、被控訴人その他の教員一同又は父兄等に対ししばしば「教員としての職務の第一は、児童の授業であるから、職場会などで授業を放擲してはならない」と注意した。且つ「若し職場会を開く際には、必ず予め校長の許可を受けなければならない」とも注意した。なお校長はゼネストの前後に於ても、職員会及び父兄会に対し「たとえ組合活動であつても、児童の教育を無視したり、これを放擲してはならない」とも注告した。しかるに被控訴人は、校長の是等の注告を無視して依然としてしばしば予め校長の許可を受けず、且つ勤務時間中、職場会を開いて児童の授業を放擲せしめて毫も顧みないのみならず、或時などは、前記校長の注告に対し、被控訴人は「かゝる時勢に、そんな、なまぬるいことでは革命はできない。授業の一時間や二時間など犠牲にしても、結局利益になるのだ」と毫語して、毫も改めず依然として勤務時間中無断で、職場会を開催して、教員の本務たる児童の授業を放擲せしめたのは、教員として許容し得ざる非違である。

しかるに原審判決は「このような事実のあつたことを認めるに足る証拠がない」と判示して被告(控訴人)の主張を排斥したのは不当である。

(4) 校長無視の風潮惹起

原審判決は、証人山路喜太郎、石毛一の各証言によつて

「浅間分会は、校長の職務権限を天下り的であるとして否定し学校運営について委員会制を主張したため、校長の命令はすべて組合役員と話合い修正を受けなければ実行できない有様となり、校長無視の風潮が惹き起されたことが認められる。」

と判示認定しながら

「右の事態は原告個人の計画、指導したものではなく、組合本部の指令に基く斗争方針の結果であるばかりでなく、分会の組合活動によつて生じた事態と見るべきである。」と判示認定しこれを主たる理由として「原告の責任を追求すべき理由もない」と断定して被告(控訴人)の主張を排斥した。がしかし組合本部からは叙上の如き指令は全然なかつたのである。従つて「組合本部の指令に基く斗争方針の結果」ではないのであつて、浅間小学校に於て斯の如き事態が惹起したのは被控訴人(原告)の独断的な指導によつてなされたものである。さればこれを以て「分会の組合活動によつて生じた事態」とて「被控訴人(原告)の責任を追求すべき理由もない」と判示認定したのは、その前提たる事実の誤認から生じた誤断であつて、被控訴人の叙上の所為については、被控訴人としては、当然その責を負わなければならない

仮りに前記の如き「組合の校長の監督権拒否、運営委員会制の主張」が、原審判決認定の如く「児童教育そのものを拒否し放置するものでなかつた」としても、法令によつて規定している学校運営に関する校長の職務権限を擅に否定することは、明らかに法令違反であつて、斯の如き事態を惹起せしめた被控訴人に対し刷新基準要綱(三)の(1)に該当するものとしてその責任を追求した控訴人(被告)の処置は極めて至当である。

(5) 校長無視の具体的行動「卑怯者よ去れ」

昭和二十二年一月二十二日城東区内各小学校長一同は校長会議を開いて、組合から脱退する旨を決議し、その趣旨を声明したこと。その翌日、山路校長が出勤してみると職員室の二ケ所に「卑怯者去れ」と墨で書かれ赤インクで傍線を引いたものが貼りつけられていたこと。その後校長一同が組合に復帰するまでそのままになつていたことは原審判決の認定の通りである。この「卑怯者去れ」というのは、「赤旗」という歌詞の四つの末尾にくり返す章句であつて、極めて斗争的な激調のものである。

さればこれを見た教員中の三、四の者は、被控訴人堀切に対し「これは余り過激である。はがしたらどうか」と云つたところ堀切は「絶対にはがしてはいかん。はがせばまたはるばかりだ」と怒号して、終日その貼つてある職員室に頑張つていたという事実がある。この貼紙は被控訴人(原告)の行為であり少くとも被控訴人の指揮の下になされたものであつて、陰性的な極めて悪質な所為である。

(6) 平野教諭の都主催講習会出席妨害

原審判決の冒頭に

「昭和二十二年一月上旬、浅間小学校教諭平野清司が東京都から都主催の手工講習会の講師の委嘱を受けてこれを応諾したこと、原告(被控訴人)が平野に対し「天下り講習会に出るな」と説得したことは当事者間に争がない。」

とあるが、控訴人が主張する事実は、当時、新教育に切替えの際であつたので、東京都としては、各種の科目につき斯ような講習をやつていたのであつて、図工専門の平野教諭は、既に、その講師として色々講習をやつていた処、浅間小学校の「学校日誌」の昭和二十二年一月九日(木曜日)の欄の記載によると、同日午後零時三十分から職場会を開いて、講師(平野)派遺の件を改めて評議して、被控訴人(原告)は右平野の講師派遺を阻止したという意味であるので、この趣旨に反するところは必ずしも「当事者間に争がない」わけではないので、この趣旨に御訂正願いたい。

そして原判決は「原告(被控訴人)は組合が二・一スト準備態勢の下にあり、浅間校分会も組合指令に従い、業務管理中であることを理由として平野教諭を説得しようとしたものであり(中略)正当な組合活動として許されるべく特に取上げて責任を問うことはない。」と判示認定して、控訴人(被告)の主張を排斥している。がしかしこの認定は左記の通り事実と全く相違しているのである。

けだし、この被控訴人(原告)が平野の講習会不参加を説得したのは、昭和二十二年一月九日(遅くともそれより一、二日間)のことであることに特に御留意願いたい。

全国官公庁労働組合協議会(全官公労)が所謂「二・一ストの準備」を公表したのは同年一月十八日のことであつて、

第一、一月二十五日から同月三十一日までをゼネストの準備期間とす。

この期間中は、午前三時間授業をして、その間業務管理せよ。

第二、二月一日から全面ストせよ(これで二・一ストと云うのである)

と云う指令であつた。全日本教員組合協議会(全教協)もこの指令に同意したというのが、事実である。

斯の如く(A)「組合が二・一スト準備態勢の下に」入つたのは一月二十五日以後のことであり、仮りにスト準備の公表の時からしても、それは「一月十八日」からのことであるので、一月九日の本件当時に於ては、末だ判示認定の如き態勢の下にあつたというのが事実誤認のその一であり、

次に(B)「浅間校分会も組合の指令に従い業務管理中」となつたのは、前記の指令で明らかな通り「一月二十五日から同月三十一日」間のことであるので、一月九日の本件当時に於ては末だ判示認定の如く「業務管理中」ではなかつたことは云うまでもないにも拘わらず、これを採つて以て判示認定の理由としたのは事実誤認のその二であり、

(C) 前記指令には「この期間中は午前三時間授業をして、その間業務管理せよ」とあるので、原審判決は軽卒にもこの字句を鵜呑みにして「業務管理中であることを理由として平野を説得したもの」であるから「正当な組合活動として許さるべき」ことであると判示認定している。

がしかしこゝに謂う「業務管理」とは斯のよう解すべきものではない。或る製造会社に於ける労働争議に於て、普通一般に「業務管理」と云えば、労働者が、会社経営者の業務経営に関与することを排除し、会社の業務経営を自己の実力内に把握して処理することと解して用いられている。がしかしこの場合の「業務管理」というのは、これと全く違うのである。即ち学校の教職員等が、学校の管理者の学校経営に関与することを排除して、学校の経営を自己の実力内に納めて一切を処理するというのではない。本来の学校の経営管理者の職務権限及び教職員自己等の教員としての職責は、依然としてそのまゝ承認し、ただ学童に対する授業は、その学校の規定の如何に拘わらず、午前三時間だけやつて、その他の授業及び担任の校務はやらないということを指摘して「業務管理」と用いているのである。従つて、仮りに、被控訴人(原告)が平野の講師応諾を阻止したことが、原審判決認定の如く「組合の指令による業務管理中」であつたとしても(時期的に事実は全く違うが)東京都から正式に講師としての派遺を需められ、応諾したにも拘わらず、被控訴人が「区教組の副執行委員長としての立場」を笠にして「天下り講習会に出るな」と強圧的に説得したのは甚だしい非違であると云わざるを得ない。

しかるに原審判決がこの「業務管理」の字句の解釈を誤解して控訴人(被告)の主張を排斥したのは事実誤認のその三である。

(三) 新校長受入れ反対運動

原審判決の冒頭に

「昭和二十二年四月六・三制新学制が実施されるに伴い(中略)原告(被控訴人)は、組合代表の一員として、区当局の係員に対し「組合員の総意によつて公選した候補以外の者から任命された校長は拒否する。他区から城東区に赴任する校長は組合で審査した上でなくては認めない」と主張したことは当事者間に争がない」。と判示している。がしかし被告(控訴人)が原審で「原告が組合代表の一員として区当局の係員に対し主張した」という第一項はこの通りであるが、第二項は

「他区から城東区に赴任する校長は組合で審査した上でなくては認めない」というのではなくして

「他区から城東区に赴任する校長は公選した候補をそのまゝ任命せよ」というのであるから、この摘示とは甚だしく相違しているので然様に御訂正を願いたい。

蓋し「組合で審査した上でなくては認めない」というのと「公選した候補をそのまゝ任命せよ」ということは、事実問題としても、法律的効果としても非常に相違しているのである。「組合で審査した上でなくては認めない」といえば、任命権者が適法に任命した者に対し、組合が更に審査して諾否をきめるということであるが、「公選した候補をそのまゝ任命せよ」といえば法令によつて規定されている任命権者の適法な任命権を全く無視して唯「組合で公選した候補を機械的に任命せよ、それでなければ承知せぬ」ということになつて、任命権の侵奪であつて違法であるということになる。

次に(A) 原審判決は

「同年四月浅間小学校に葛飾区中井堀小学校長野々田健三が校長として赴任して来ることになつたが、当時、城東区教組では、右に述べたように他区からの校長を受入れる態勢がとられておらず、そのため着任が遅れて六月になつたことが認められる。」と判示認定しているが、事実は正規の任命権者である控訴人(被告)が、野々田健三を本件浅間小学校長に転任せしめることに決定し、同年四月、その辞令を発した。これに対し同校の職員会では「この赴任を承認してもよい」ということになつたが、同時に「区教組がどうするかをその様子も見よう」ということになつた。

この赴任の発令後に、区教組の大会があつて、前記の如き決議をして、区教組で公選した候補者石毛一(当時浅間小学校の校務主任)を浅間小学校長に任命せよ、これと異なる野々田健三の校長としての任命を認めないと主張し、そのために着任が遅れたというのが真相であつて事実を誤認している。

(B) それに続いて「然しこのような主張は、組合活動として違法であるとはいゝ難く」云々

と判示認定している。がしかし如何なる「組合活動」と雖も法令の範囲内に於てなさるべきものであつて、法令に違反し、法令を無視するが如き活動は断じて認容さるべきものでないことはいうまでもない。「組合で公選した候補をそのまゝ任命せよ」という決議は、適法な任命権の侵犯であつて、違法なものであることは前記の通りである。この違法な決議を貫徹せんとして執拗に活動したことが「違法であるとはいゝ難く」というのは明かに失当であるといわさるを得ない。

(C) そして野々田新校長の着任の遅れたことは同区教組が執拗強力に反対活動したためであつて、被控訴人(原告)はその活動を率先して指導推進せしめていたものであり、この間被控訴人は校長の座席に着いて、この活動を推進せしめていたのである。

(四) 校内居住における学校管理上の障碍

原審判決はこの事に対し

(A) 校長から特に自粛を促した事実も認められず

とて被控訴人のかゝる所為に対し、学校の管理者たる校長が、その居住振りを改めるように注告したことが認められないこと、と

(B) この程度のことを基準(二)の(2)「学校の民主的運営に非協力」に該当するものとして取上げることは酷である。

と判示認定して、控訴人の主張を排斥している。

がしかし或る家屋の一室を借りて居住するについても、土工のような者が同居するのと、学生が同居するのと、また同じ学生でも、宿料を払つて下宿しているのと、知人の好意によつて特に同居さして貰つているのとは、その間自ら日常の心遣いや、居住の仕方に相違をしなければならないことは世間一般の常識であるる。居住さして貰つている者が、その居住さしている者との関係及びその居住するに至つた事情並びに自己の身分職業などを全く無視して、居住さしている者の迷惑などは少しも顧慮せず、たゞ自己の恣意のまゝに傍若無人に居住すれば、当然非難されなければならぬことは言うまでもないことである。

本件に於て被控訴人が、校内宿直室の隣室に居住するに至つたのは、被控訴人がこの学校の教員であるということが重要なことであつて、この教員たる被控訴人が校長に「ほんの少しの間でよいからその部屋を居住に使わして貰いたい」との切なる申入れがあり、校長も「住宅難の折柄、自校の職員が、少しの間居住するのである」というところからして、その居住を承諾したのである。

されば、被控訴人としては、これ等の経過事情に鑑み、校長からの注意をまつまでもなく、その居住の仕方については、当然それだけの心遣いをしなければならない。殊にその学校の教員であるということ(これが校長としては居住を承認した重要な点であるので)に思いを致して、その居住の仕方如何によつては、学校内の一般の風潮引いては学校の運営に重大な影響の及ぶことも、苟も教員としての良職からして当然考慮反省しなければならないことは極めて明かなことである。

しかるに被控訴人は「少しの間」というのが「昭和二十三年四月頃から翌二十四年七月までの一年三ケ月」にも及び、しかもその居住振りは、原審が認定したところによつても「深夜帰校したり、或は夜間多数の者が出入したりして、隣室の宿直教員の安眠を妨げ、宿直上の義務遂行に迷惑をかけ」るということは、前記の如く大に非難されなければならぬものであつて、斯の如き恣意のまゝの振舞は正に基準(二)の(2)の「学校の民主的運営に非協力」であつて、原審判決のこれに「該当するものとして取上げることは酷である」と判示認定しているのは、甚だしい失当であつて到底承服することができないのである。

また原審判決は、被控訴人の斯の如き所為に対し「校長から特に自粛を促した事実を認められない」ので、これを今更取上げて処分事由の一とした控訴人の主張を排斥しているが、この認定は、実に本未転倒の甚しいものであつて、被控訴人の同校に於ける当時の情勢を無視した誤謬と云わざるを得ない。

(五) 共産党公認候補の選挙運動

第一、先づ原審の判示認定事実中

(A) 「城東区教組として関候補のため選挙運動をすることとなつたため」

とあるが、

城東区教組として関候補のため選挙運動をしたことはなく、城東区教組として関を候補として推薦したこともなく、また城東区教組で被控訴人堀切が関の選挙運動をすることにきめたこともない。

(B) 「関は都教組の副執行委員長であり、原告(被控訴人)は中央委員であつた関係上」

とあるが、

都教組(東京都教職員組合)のできたのは、前記の如く昭和二十二年七月五日(同年九月二十七日届出)であるので、本件の昭和二十二年四月にはまだ都教組はできていなかつたのである。従つて関は都教組の副執行委員長でもなく、被控訴人もその中央委員でもなかつた。昭和二十年十月二十三日都教労が結成されて本件当時その都教労の副執行委員長は佐藤光雄と高田実であつて、関は都教労の中央執行委員長であつたのである。

(C) 「原告(被控訴人)は組合の決定に従い」

とあるが、

当時関は墨田区立小梅小学校の教諭であつたので城東区教組で被控訴人を「関候補のための出納責任者」と決定するわけもなく、然様な決定はなかつたのである。

叙上の如く原審の判示認定は全く事実を誤認しているのである。従つてこの誤つた認定を前提として

「原告の選挙活動は組合の決定に従つた正当な組合活動として為されたものであるといわねばならない」と断定したのは甚だしき誤謬である。

第二、原審判決は、被控訴人が「学区」内で一党一派に偏する政治活動をした点に関し、

(A) 「学校」とは単に校舎校庭をいうばかりではなく、校長及び教職員によつて構成せられる人的組織と、校舎校庭その他の物的施設の一切を綜合した機能的な観念であると解すべく(中略)「学区」はこれを教育上に利用すべき施設とはいえないから、「学区」内の政治活動は学校内の政治活動とはいえず、右通牒は学区内の政治活動を禁止したものとはいいがたい。

と判示認定している。

この「学区」に関する解釈認定は、甚だしき誤解で到底承服し得ないのである。

原審判決の引用した昭和二十一年十一月二十六日附東京都次長から国民学校長、中等学校長宛の「教職員及学生生徒の政治運動及び選挙運動に関する件」と題する通牒が発せられたのはつぎの事情による。

すなわちもと治安警察法で「官公立私立ノ教員学生生徒其他ノ者ハ一切政治上ノ結社ニ加入ス」ることを禁止して教育者に対しその方法を問わず、如何なる場所でも、一切の政治活動をきびしく禁止していたた。ところが終戦後、ポツダム宣言とこれに伴う連合国軍最高司令官の覚書によつて治安警察法が廃止された。また労働組合運動が活発化された勢につれ、労働運動ではないが昭和二十年十二月全日本教員組合(全教)日本教育者組合(日教)が結成され、教職員の政治活動が従来の抑圧に対する反動として頗る活気づいてきた。

がしかしこの治安警察法空白に乗じ教職員が教育の場に於て政治活動することは、教育は飽くまでも中立でなければならないという至上的な見地からして放任しておくことができないので昭和二十一年七月七日発学一〇六号を以て文部次官から地方長官、学校長へ

「治安警察法廃止せられ教職員及学生生徒の政治上の結社加入は差支なきことと相成たるも之に伴う政治運動は其の本務を逸脱せざるべきは固より各々其職分に鑑み公正清純たるべきこと特に学校内に於ける教職員及学生生徒の政談演説若くは特定政党、特定者の支持乃至推薦行為等(文書に依るものを含む)は厳に之を禁止すること」

と通牒し、東京都ではこれを承けて昭和二十一年十一月二十六日東京都次長から国民学校長、中等校長等宛に前記判決引用の通牒が発せられたのである。叙上の趣旨によつて発せられた通牒であるので被控訴人が、東京都の教員でありながら昭和二十二年四月の東京都議会議員選挙に際し共産党公認候補関研二の出納責任者となり、その選挙のポスターに責任者としてその氏名を記載して貼付公示したことは、教員たるの「本務を逸脱した」ものであり且つそのポスターを「学区」内に貼付公示したことは厳に禁止しているところに違反したものと云わざるを得ない。ところが原審判決は、前記の如く先ず「学校とは校長及び教職員によつて構成せられる人的組織と校舎校庭その他の物的施設の一切を綜合した機能的な観念」であると定義的な解釈をし、これをそのまゝ押し進めて学区はこれを教育上に利用すべき施設とはいえないから「学区内の政治活動といえない」と断定して「右通牒は、学区内の政治活動を禁止したものといいがたい」と判示認定して被控訴人の主張を排斥した。

がしかし「学校」という字句は、その意味するところが実に千差万別であつて「学校の修学旅行」というが如く、又は、某公園に於ける運動会或は校舎外の写生教授等、或は「学校」の程度が低いとか「学校」の風儀が悪いとか云うように「物的施設」のない場合でも亦「学校」と用いているのを見れば、原審判決の如く「学校」というには必ず「物的施設」がなければならないときめてしまうのは甚だしく失当であつて「学校」と用いているその時、その場合の趣旨又は意図に従つて解釈しなければならないのである。

然らば何故に、教職員に対し特に前記の通牒が発せられたか、前記通牒は何を目図としているものであるかを考究する必要がある。

教職員と雖も「政談演説若くは特定政党、特定者の支持乃至推薦行為等」は差支ないわけであるが、他方、教育の中立性を堅持するという教員の至上的使命からして、教員の学童等に及ぼす影響力の重大なるを考慮して、その影響を及ぼす虞のある場所に於て「政談演説をなし若くは特定政党、特定者の支持乃至推薦行為」などをしてはその至上的使命である教育の中立性を破壊する惧があるので、予めこれを防止するために特にこの通牒が発せられたのである。

さればこの通牒の「学校内」というのは必ずしも原審判決の認定の如く「教育上に利用すべき物的施設」の存在することを要件とするものではなくして、教員が、教員たるの資格に於て、その教えている学童等に影響を及ぼす場所は総べて包含する意味であることはこの通牒を発した趣旨からして極めて明らかである。従つてこの通牒の「学校内」というのは、この趣旨によつて解釈適用しなければならぬものであることは云うまでもないことであろう。

而して「学区」というのは、その地域内の学童ならば必ずこれを収容するという学校と学童との特別の関係を持つている地域を指称するのである。

従つてその「学区」の学校の教員の行動は、その「学区」内の学童及び父兄に対し教育上重大な影響力を持つていることも亦明らかである。

この教員の政治活動が問題となつた際、昭和二十四年六月極東軍司令部渉外局から「政党の侵入に対し学校当局に警告」として発表された内にも「学校の意味には学校の名に於て、又はその職員としての影響を通じて直接且つ間接に行われた諸活動を含む」と指令していてこの通牒の「学校内」ということもこれと同様に解釈して取扱われて来たのである。

叙上の次第であるので、この通牒の「学校内」というのは必ずしも原審判決の如く「教育上に利用すべき物的施設」に限るべきものではなくして、教員が教員たるの資格に於て、その教えている学童等に影響を及ぼす「学区」をも指称しているものと解すべきものである。従つて被控訴人が、その勤務している浅間小学校の「学区」内に自己の氏名を記載した共産党公認候補関研二の選挙ポスターを貼付公示したのは正にこの通牒の違反であるというべきである。

(B) 次に原審判決は

右通牒に違反しないとしても教員としての本務を逸脱すべきでないことは当然であつてと判示しているが、しかし前示通牒の第一項には前記の如く明らかに「政治運動は其の本務を逸脱せざるべきは固より各々其の職分に鑑み公正清純たるべきこと」とあるので「教員としての本務を逸脱」すれば当然に「右通牒の違反」であるから、原審判決の如く「右通牒に違反しないとしても教員としての本務を逸脱すべきでない」などということはあり得ないことであるので、この点に於ても右通牒を正当に解釈していない。

(C) 続いて原審判決は

「事実上組合事務に専従していた」ので「教員としての本務を放棄して教育上支障あるものと非難すべき理由はない」

と判示認定しているが、しかし控訴人が被控訴人に対して非難しているのは斯ようなことではない。たとえ組合事務に専従していても教員たるの身分には少しも変更があつたわけではなく依然として教員であるのでその教員がその勤務している学区内で斯ような所為をしたことを非難しているのであつて、この判示認定は、控訴人の主張したところと全く筋違いである。

(D) なお原審判決は

また学区内において前記ポスターを貼つたことが、直ちに児童教育上支障を生じたものともいえない」と判示認定しているが、しかし実際には学童の教育上悪影響を及ぼしたのである。

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